種麹の伝統を、未来へ

室町時代、
良い麹をつくる方法のひとつとして、
種麹づくりが始まったと伝えられています。
麹屋三左衛門は、常にまっすぐ麹と向き合い
「良い麹」とは何か、
麹一筋で考えてきました。
六百年という長き伝統をもとに
代々研究を積み、製法の改善を重ね、
高品質の種麹を製造しています。
これからも、
種麹を通じて
日本の食文化の発展に尽力していきます。

STORY 糀屋三左衛門の あゆみ

  • 14世紀~20世紀初頭 創業から明治時代

    当社の先祖は京都にて当初穀類問屋・札差を業とし「桝屋三左衛門」と名乗っていました。室町時代に足利13代将軍の許可を得て、北野天満宮の「西京麹座」の座員として麹業を開始しました。京都市内の業者から木灰を19代に亘って購入していた記録が残っていることから、創業から間もない頃には、木灰を使った種麹の効果的な製法を考案し、種麹の製造をしていたとされています。

  • 1950年代 工場の様子

    工場の様子
  • 1960~70年代 豊橋への移転

    1965年(昭和40年)、京都本家の三男であった村井豊三が愛知県豊橋市にて分離独立をしました。新幹線が開通し東京・大阪方面への便が良く信州方面にも通じており、また、愛知県は様々な醸造食品があったこと、そして、戦時中のご縁も得て、豊橋に移転することになりました。事業拡大していく中でやがて京都本家が事業を閉鎖することとなり、許し版や営業権、商標権を譲り受けるに至りました。

  • 1980~90年代 株式会社
    ビオックの設立

    株式会社ビオック外観

    1980年代、安定した品質の種麹を生産できる体制を整えるため、パーフェクトクリーン工場を完成しました。次第に取引先が増えシェアを拡大していく中で、醸造技術がバイオテクノロジーとしても注目を浴びるようになりました。そこで、研究開発部門をより一層発展させ麹菌をはじめとする微生物の可能性を開拓していくために、1992年(平成4年)「株式会社ビオック」を設立。糀屋三左衛門はビオックと分業し、清酒用種麹や小売商品の販売など、伝統を守る役目を担っていくこととなりました。

  • 2010年代 小売商品の
    全国・海外展開

    伝統や健康など様々な面で麹に注目が集まるようになり、「麹ブーム」と呼ばれるほどの活況をていしてまいりました。糀屋三左衛門もそれまで主に地域の皆さま向けに製造していたあま酒などを百貨店などで取扱いいただくようになり、2017年にはローマ法王庁へあま酒の献上もおこないました。『nomaの発酵ガイド』への掲載を機に海外からの種麹需要も高まり、全世界の個人ユーザー様へ種麹の販売を開始しました。

  • 2020年代 種麹の継承・発展に
    向けた
    事業展開

    KOJI THE KITCHEN

    種麹・麹のこれまでにない使用方法やユーザー層の拡大などを受け、2000年代に業界で初めて種麹のオンライン販売を開始したECサイトを刷新しました。各地での講演など、麹の理解と普及へ向けた活動に加え、2021年には、「KOJI THE KITCHEN」プロジェクトを発足。種麹の伝統を引き継ぎながら現代の価値観にアップデートし、美食的価値と楽しさを探究していくことで、麹文化の発展と継承に取り組んでいます。

足利13代将軍より賜った
許可証。

当社は14世紀頃より麹製造業に関わり、まもなく種麹製造業をはじめました。16世紀に室町幕府13代将軍 足利義輝公より種麹業の許可証として賜ったとされる木版は代々受け継がれ、当社に現存しています。

足利13代将軍より賜った許可証

屋号の由来となった
販売袋。

家宝の木版を栁墨で刷った販売袋で種麹を流通させたことから「黒判(くろばん)」という屋号が定着しました。現在でも全国の蔵元から「黒判さん」の愛称で親しまれています。

屋号の由来となった販売袋

京都時代に使用していた
「もやし」看板。

「もやし」とは麹菌のことで、麹菌の菌糸が伸びる様子が若草が萌える様子に似ていることから「萌やし」と呼ばれるようになったとされています。

京都時代に使用していた「もやし」看板

京都時代に使用していた
升印のれん。

元来、「マス」印を使うのは穀類問屋、札差業に多いと言われ、当初は札差を生業として「桝屋三左衛門」を名乗り、名字帯刀を許されていました。その後、「糀屋三左衛門」と呼称するようになりました。

京都時代に使用していた升印のれん